たとえば、「嘗て登った山」「冬の山」と言ったときの「山」は自ら単独に考えられる具備した全き概念を表しておる。即ち、「嘗て登った」「冬の」などと言う語が無くても不足はない。ただ詳しくなくなるだけであります。このような「嘗て登った」「冬の」を修飾的連体語といいます。またこのような「山」を絶対態にある名詞といいます。要するに不足がない、他物に関係せずそれだけで考えられるものです。英語などの名詞は反対に単独に考えては意義が具備しない相対態にあることが多いため、ほぼ必ず冠詞なりを附けなければ絶対態にならない。
なぜこんなことを申したかといいますと、とあるブログで「食其所愛之肉」の「所」の特殊な用法について述べておられるのを読んだからであります。この「所」ついては加地伸行氏の『漢文法基礎』でも触れられておりまして、私も嘗て読んだときにはこんな用法の「所」もあるものかと思った。といいますのも、この「食其所愛之肉」は「其の愛するところの肉を食らふ」と訓むのでありますが、普通に考えれば大好物である肉を食うの意の如く思われますが、ここでは「自分が愛する妻妾の肉を食う」の意であるというのです。
私はこれについて「食其所愛者之肉(其の愛するところの者の肉を食らふ)」の如く考えれば何の変哲も無い、いつもの「所」の用法になる、この「其所愛」は一種の修辞的な用法であろう、くらいに考えておりましたが、今考え直してみますと、これは「所」が特別なのではなく、実は「肉」が特殊な用法、そういえば大げさでありますが、兎も角も相対態にある名詞と考えるべきものではないかと思うのです。「肉をくれ」と云えば「何の肉だ」となる。「肉」だけでは全き概念ではないのです。我々が「肉」を考えるときには、必ず其の相対性の基準たる概念とともに心に観念される。ただここで相対態というのをあまり厳密に考えてはなりません。如何なる事物の概念と雖も突詰めれば相対的ならざるものはない。「山」や「花」が絶対態の名詞で、どうして「肉」が相対態なのかということをあまりに突詰め、概念自身を分析的に考えてはならんということです。そうではなく、我々が事物の概念をどう扱うかという扱い方の方面から極常識的に考えるのです。英語で「book」が相対名詞であるからと言って、日本語の「本」も相対名詞であるというわけではないのです。ある事物を本性として他物に対して考える場合の、其の事物を指して相対名詞と謂うのです。「犬」はそれだけで具備した概念であります。しかし「右」はそれだけでは考えられない。「左」に対して「右」であります。「肉」はそれだけで考えられそうでありますが、動物と肉との結びつきが強ければ、単独で具備した概念とは言えない。そこで動物に対して相対的と考えるのです。
「我所愛之肉(我が愛するところの肉)」と「我所愛之蓮花(我が愛するところの蓮花)」とは連詞関係こそ同じであれ、其の實、補充と修飾との区別が存しておるのです。どちらも形式は同じでも、前者は単に「肉」と言ったのでは全概念とならない。半概念であります。然るに「蓮花」はこれにて全概念となっておる。依って前者の連体語をば補充的または相対的連体語といい、後者の連体語を修飾的連体語と謂うのです。説文の「肉」字の段氏注に「生民の初め、鳥獣の肉を食らふ(生民之初、食鳥獣之肉)」とありますが、この「鳥獣之」もまた相対的連体語であります。「肉」を性質として「鳥獣」に対して相対的に考えておるのです。故に相対名詞と謂うのです。「死体の山」と云えばこの「山」は相対態名詞でありまして、山が死体から成り立つ、死体が積まれて山の如き状態にあるという意であります。「嘗て登った山」も「冬の山」も修飾語を欠いたとて説明が詳しくなくなるだけですが、「死体の山」は違う。「死体の」と言わねば「山」の質を表せない。何となればこの「山」は性質として「死体」に対して相対的に考えられておるからであります。「死体の山」は「死体の山としてあるもの」であります。「山」としてあるという性質は「死体」無しには考えられない。基準となる事物あって後、其の性質が考えられるのです。「子を下さい」では分らない。「犬の子を下さい」と云えば、「子」の相対性の基準たる概念が補充されて初めて全き概念となるのです。「鶏の卵」の「卵」は「鶏の卵としてあるもの」の如く、「卵」は「鶏」に対して性質として相対的であるのです。「鶏」があって後、「卵としてある」ことが考えられる。「父の財産」と云えば、この「財産」は「父」に対して所有物としてやはり相対的であります。所有者である「父」あって後、其の所有物が考えられる。修飾と補充とに外形上の標識なくとも、区別の存し得べきことこれで了解されたと思います。これが相対態の意味です。
『標準漢文法』(五六九項)に、
連体的従属に於いては補充的従属であるべきものをも修飾的従属としての形式に於いて従属するから、連体的従属は全部修飾的従属として取り扱はれる。
とありますが、これは上述の如きを指しては言うのです。
「食其所愛之肉」は、単に「肉」を食うと言ったのでは全概念とならない。「其所愛之」は「肉」の相対性の基準たる概念を以って補充しておるのです。然るに、
読我所愛之書 (我が愛するところの書を読む)
の「書」は絶対態の名詞であります。この「書」は事物に対して相対的に考えられておるものではない。「我所愛之」は「書」に対する修飾的連体語であります。依って此れをも我が愛するところの、例えば妻妾などの書を指すのであるなどと云えば、それはちょっと無理があろうと思う。少なくとも修辞的な要求のない限りそういう書き方はしないほうがよい。其の訳はこれを然く考えるためには「我所愛之」が相対的連体語でなければならない。而して其れが相対的連体語であるためには被連体語である「書」が相対態にあるものと考えなければならないのです。然るに「書」は本性のままに用いれば絶対態であり、また「我所愛之」が与える印象は少なくとも形式上修飾的であるからであります。依って是くの如きは素直に「私が愛読する書」の意に解すべきであろうと思う。
結論(仮説):
「甲」 + 「所」 + 「乙」 + (之) + 名詞 (甲の乙するところの名詞)
上式の如く「甲+所+乙」が連体語としてある場合は、被連体語である名詞が明確な相対名詞、たとえば「上」「下」「全部」「一部」の如きでない限り、まづ修飾的連体語として考えるべし。西田太一郎氏の『漢文の語法』(一五九項)を見ますと「食其所愛之肉」の例とともに、
天所崇之子孫、或在畎畝 (周語)
の例文が挙げられております。たった一例のみではなんとも言えませんが、確かにこの「子孫」は相対名詞であります。「天所崇之」は「我の」「其の」「父の」などの相対態被連体語に於ける関係と同じであります。「我の父」と云えば、「我」と「父」とは異なる者であるように、「天所崇之子孫」と云えば「天所崇」と「子孫」とは異なる者であることに注意してください。単に「子孫」の中には落ちぶれた者がある、と言ったのでは分らない。「なんの子孫」だとなる。「嘗て天が其の身分を高くした子孫」であります。修飾ではなく補充であります。補充とは修飾の如く説明を詳しくするのでなく、足りない者を新たに加えるのです。被連体語に欠けておる者を補うのでありますから、連体語と被連体語とは二つで一つでなのです。
因みに言う、某ブログでは「其所愛之肉」の「其所愛」だけでは具体的にこれが何を指すか分らない、「花子」かも知れないし、「牛丼」かも知れない、と述べてある。それはもちろん其の通りであります。しかし、「肉」と云えば絶対態でない限りは「何の肉」と言わずしては全概念とはならないのでありますから、ここに於いて「其所愛」は少なくとも「肉」とは異なる「何か愛するところの者」とならざるを得ないものと思う。それが「妻妾」を指すといいますのは文脈から言えることであり文法上は「肉」以外の何かとしか言えない。「肉」を考えるに其の相対性の基準たるべき何かであります。「妻妾之肉」と云えば直接的で憚られる為「其所愛之肉」とはするのです。
無論これらは詞の本性を述べたまでで、其の運用に至っては絶対態名詞の相対態化することあり、相対態名詞の絶対態化することあるは言を俟たざるところであります。
(追記)相対名詞について
「犬の牝」と「牝の犬」との違いに注意していただきたい。前者は相対的連体関係で、後者は修飾的連体関係であります。「犬」は「牝」ということに相対せしめずとも考えられる。絶対名詞であります。「牝」という概念無しに「犬」は考えられるのです。「牝の犬」の「牝の」は「犬」の所属を表すと雖も、それは犬に固より含まれる内包を引き出し以って修飾しておるばかりであります。補充ではない。犬の性質を詳しく明確にしておるのみです。然るに「犬の牝」の「犬の」は「牝」という性質の基準であります。性質は事物より派生するものでありますから、事物が体であります。体なしに用は考えられない。「犬の」は「「牝」の相対性の基準たる概念を欲するという形式的空虚に対する補充であります。最近見たテレビコマーシャルで彦麻呂さんでしたか、彼が肉を食べ評して「肉のヨガ教室だ」というのがあったのですが、「ヨガ教室」はもちろん本性として絶対名詞であります。しかし、ここの「ヨガ教室」は違う。この「ヨガ教室」は肉の性質として「肉」に対して相対的に考えられておるのです。「ヨガ教室」は「やわらかくあるもの」の如き肉の性質を表すのであり、性質として肉に対して相対的であること、「死体の山」の「山」と同じなのです。
【参考】
『漢文は上から下に読むもの』(修飾と補充との違いを扱ってある)