ここでは文章論というほど大げさなものではありませんが、一通り漢文の構造を述べておきたいと思います。品詞については入門の段階ではあまりうるさく言うべきではないでしょうから、先に文の構造を扱うのです。説明の過程で品詞名が出てくることもありますが、あまり深く考えず、名詞と云えば「草木山川」の如き単純なもの、「本を読むこと、子供が親によく孝行すること」などの如き複雑なもの、動詞と云えば「泣く、笑う、食べる」の如き単純なもの、「泣いて笑う、月が東山の上に出づ」の如き複雑なものを観念していただければ、それでよいです。特に複雑なもののほうの考え方には慣れておいてください。松下文法に所謂「連詞的品詞」です。
明治昭和の国語学者、松尾捨治郎博士曰く、
自分の考へでは、文法研究も説明も文章論から入るが善いと思ふ。此れには反対論もある様であるが自分は固く之を信ずる。 第一の理由は、事物の研究は凡て粗より細に、全体より部分に及ぼさねばならない。それが極めて自然のことである。例へば家屋に就いて調べるのでも、外形や大体の構造、用途等から調べてはじめて間取り、材料等に及ぶのが自然である。まづ最初に局部局部が木か石か金か土かコンクリートかを調べて、然るのちに大体の構造などのほうに及ぶといふことは不自然である。更に一つ例を挙げて言へば、我々は如何なる順序で鳥や獣などに関しての知識を得るかといふにその外形から始めて、後に解剖的の部分部分に及ぶではないか。文法とても同様である。我々は、普通、単語を切れ切れに談話するのではない。即ち口で言ふのも、耳で聞くのも、共に一の文sentenceであって、単語は文の一成分としてのみ価値があるのである。それでまづ其の文について一通りの研究調査を試みて、然る後これを構成する一部一部の単語に進むのが極めて自然である。 (中略) 品詞論を後回しにする為に生ずる面倒も絶無ではないが、仮に一歩を譲って品詞論から入る困難と、文章論から入る困難とは、相殺されるとしても、或る人たちの懸念する様に、品詞の知識のないものに文章論がどうして分かるか、などといふやうな事は断じてない。
- 何が + どうする(動詞)、どうだ(形容詞)、何だ(名詞)
日本語と同じ語順です。
- 花が開く ⇒ 花開
- 鳥が啼く ⇒ 鳥啼
- 花開き、鳥啼く ⇒ 花開鳥啼
- 月が明らかだ ⇒ 月明
- 星が稀だ ⇒ 星稀
- 月が明らかにして、星が稀なり ⇒ 月明星稀
- 関が原は古戦場だ ⇒ 関原古戦場也
- 正行は、正成の子だ ⇒ 正行正成之子也
練習問題 以下の文を漢文に直してみましょう。
- 青山が巍巍(ぎぎ・高大なる貌)として聳え、碧水が洋洋として流る
【注意】「巍巍」「洋洋」は下の動詞に対して修飾語でありますが、修飾語の位置は日本語と同じで、修飾される語すなわち被修飾語の前に置きます。必ず死す ⇒ 必死、殴って殺す ⇒ 殴殺
- 何が + どうする(動詞) + 何を、何に、何と、何より(比較)
客語が動詞のあとに来ます。日本語と語順が異なるのはこれだけです。否定の「不」なども日本語と語順が異なるように感ぜられるかもしれませんが、「不」は副詞で修飾語でありますので、被修飾語の前に置かれるのです。「不の字に美人だ」などと同じ心持です。また使動(使役)を表すに、日本語では「悪人に殺させる」の如く動詞の後ろに助動詞をつけますが、漢文では「使」という修飾語を使って、「悪人にやらせるという方法で、殺す(使悪人殺、悪人をして殺さしむ)」という形式で表現するのです。すなわちこれも文法的には日本語と同じ語順なのです。異なるのは動詞や前置詞の後ろに客語が来るということばかりです。「使悪人殺」の例で申せば、「使悪人」は「殺」に対して修飾語であるので日本語と同じ成分配列でありますが、「使」の後ろに「悪人」という客語が来ている点は日本語と反対である、とはいえます。
「何より(比較)」とありますは、たとえば「青出於藍、而青於藍」の如きを読み下して「青は藍より出て而も藍より青し」などとしますが、この二つの「より」のうち、比較を表す「より」の方、すなわち「藍より青し」の「より」の方を指して「何より(比較)」と言ってあります。ただ文法的にはどちらも「~に」として考えるべきものです。つまり、「青は藍に出て、而も藍に(対して)青い」という意味です。我々が「藍より青し」と比較格を以って表すところを、彼らは「藍に於いてより青くあり」という形式に於いて表すのです。「形容詞+於+客語」の語順だからと言って必ず形容詞が比較態になるわけではありませんから、いつも直訳的に解するのがよいです。たとえば、
今寇衆我寡、難於持久
これは「敵が多く、こちらは少ないから、長く持たない」の意で、「持久するに難くある」のです。
- 彼が書を読む ⇒ 彼読書
- 彼が人を殺す ⇒ 彼殺人
- 彼が書を読まない(彼が不の字に書を読む) ⇒ 彼不読書
- 彼が人を殺さない(彼が不の字に人を殺す) ⇒ 彼不殺人
- 彼が余に一書を与える ⇒ 彼与余一書
(註)「与」の如き客語は「~に」の客語をまづ取り、其の後に「~を」の客語を取る性質のものでありますので、この客語を妄りに入れ替えることはできません。もし入れ替えたい場合は、「彼与一書於余」の如く、必ず「於」を入れなければなりません。
- 彼が義に死す ⇒ 彼死義
- 木が山に在り ⇒ 木在山
- 彼が病に臥す ⇒ 彼臥病
- 心は猶ほ火の如し(心が火に似ている、と読み換える) ⇒ 心猶火
- 蟲が戸より出る(蟲が出ること戸に於いてす、と読み換える) ⇒ 蟲出於戶
- 或いは大人と為り、或いは小人と為る ⇒ 或為大人或為小人
- 未だ学んでいないのに、すでに学んだと為す ⇒ 未学為已学
- 禍は、足るを知らざるより大なるもの莫し(大なること足るを知らざるに於いてするもの莫し、足るを知らざるに較べて大なるもの莫し、と考える) ⇒ 禍莫大于不知足
(註)「如、若、猶」はみな「似る」の意。花に似る ⇒ 如花(花の如し)、親に似る ⇒ 如親(親の如し) (註)「或」は副詞で修飾語でありますから、被修飾語の前に冠するのです。 (註)「莫」は動詞。「于」も理論上は動詞でありますが、今は単に前置詞と考えるもよい。いづれにしても客語(不知足)が後ろに来ておることに変わりはありません。
実は漢文特有の構造はこれに尽きるのでありまして、あとは国文法なり英文法なりの知識を応用してゆけばよいのです。たとえば「~べし」の如き意を表す「可、當、應、合、宜」などは国文法の助動詞とは異なり、皆英文法の助動詞(auxiliary verb)に当たるもので、shuold、mustなどと同様に心得ておけばよいのです。「可」と云えば、「~するに可なり」の意で「~す」の部分には実質的意義を表す動詞が来るのです。「可食」と云えば「可」も動詞で、「食」も動詞なのです。「食」は動詞でありますが「可」に対して客語です。こういう形式動詞の類は其の都度覚えてゆけばよいです。最後に少し練習して終わりましょう。
- 練習問題
我蹇也毎控地而行非手則不能寸進何得持釜去也汝言有理我知告者為妄也盗喜即以頭戴釜而去
「蹇(けん)」はちんばのこと。「毎」は副詞(前置詞)で「つねに」の意。「非手則」は「手にあらずんば、または手にあらざれば則ち」と訓み、「手でない場合は」の意。「不能」は「~する能(あた)はず」と訓み、出来ないの意。「能」も其の後の「得」も可能を表す動詞で客語を取ります。ここでは「寸進」というのが「寸進する」の意の動詞。「寸」は「進」に対する修飾語。「進寸(寸を進む)」とすれば「寸」は「進」に対して客語。「何」はどういうわけあいあっての意。手を使わなければ進めないのだから、釜を持ち去るなど出来ぬというわけ。
「有」は客語を取る動詞でありますが、日本語では客語を主語の如く訳します。「汝言有理」は「お前の言葉には理が有る」の如くするのです。しかし文法上はどこまでも客語です。金が有るは「有金」、能が有るは「有能」の如し。「以頭戴釜」は「頭を以って釜を載す」と訓みます。ひっくり返して「戴釜以頭」とすれば「釜を載せるに頭を以ってす」となります。意味は同じで、頭という方法で釜を載せるのです。「頭に載せる」ということを「頭で乗せる」という形式に於いて表しておるのです。裁判で無罪となったため喜んで、頭に釜を載せて帰っていったというのです。
漢文の実力を附けるには初手から白文を使って勉強することです。上記のようなものをいきなり読むのは難しく思われるかもしれませんが、訓点附きの漢文を読んでもあまり勉強にはならないのです。詞と詞との関係を一々考えながら読むこと自体が勉強なのです。