可の性能
可の性能

可の性能

久しぶりのブログです。最初にお断りしておきますがこれはあくまで趣味で松下文法を学習している者によって書かれてあります。また近ごろは思考が長続きしませんし、松下文法の学習と言ってもとんと進んでおりませんので、本来ひと様に見せられるようなものではありませんが、幸いにも松下文法をやっておられる方のブログ(漢文 学びの窓、中井さん)を見つけましてですね、その文章を読んでいるとこちらの脳みそも刺激されて色々と考えさせられるわけです。それで私の方もツイッターなんていう便利なものに思ったことを書いたりしていたわけです。しかし、手軽に発信できるのは良いが、ああいう形式で自分の考えを書き留めても匆々の間に致すところでありますから自分の中に積み重ならない。記憶に定着しない。またあとから振り返るにも不便である。そして仮に読んくれる方がおったとしても矢張り考えを追いにくい。そう言ったわけでこれは殆ど自分の勉強のためでありますが、軽はずみに呟くのではなく、それよりかは幾分かでも思考を深く巡らしてですね、折角考えたことを湮没せしめぬようにとの考えから記すばかりであります。取り留めのない文章になろうかと予想しておりますが、誤り、疑問など何でもありましたら気軽にお知らせください。

それでですね、何から書こうかというわけでありますが、それはまあお題目は決まっておるのです。可についての話です。これについては前に書いたことがあるにはあるのですが、今回中井さんのブログを読んでですね、改めて自らの考えを纏めてみようと思ったわけですね。

まずこれから論じるのは可の基本的な文法的性質であります。それは以下のごとし

可は依拠性帰着形式動詞で、~するに可なりとでも読めば良いものです。可の下に以字とともに、或いは以字無しで直ちに動詞を取ります。その動詞のことを内包的客語と言います。可字に対して客語であるわけですね。ここで我々が考えうべき事柄は、可自体の主客体、以字があれば其の客体、更に内包的客語の主客体であります。松下文法に拠れば、可字の主語と内包的客語の客体が同じである場合、私はこれを勝手に直接客体の同主客と呼んでおりますが、それはただ便利の為ですから、皆さんの方で分かりよく名付ければ良いと思います。話を続けます。つまりですね、直接客体とは内包的客語の客体のことですがこれと可の主語とが同じである場合は内包的客語の客体の方が非帰着化するというわけです。非帰着化というのは要するにその動詞が客語を取らないという意味です。なぜ取らないか。客体は他の方法、ここでは可の主語としてもう表されているからわざわざ更に内包的客語の下に其の客体を置く必要が無いんですね。この本が読めぬと言えばそれで意義全しでしょう。読むの客体は表されていないが、言わなくたって分かる。この本です。なぜ分かるか。既に読めぬの主語として表されているからです。其れが為に読めぬは非帰着化したというのです。それでは中井さんのサイトの例文をもとに最初の問題を考えましょう。

以不忍人之心、行不忍人之政、治天下、可運之掌上。

元々中井さんの疑問点はこの之字がなにを指すかということでありましたが、これがちょっと重層的な問題を孕んでいるんですな。まずですよ、仮に治天下を可の主語としましょう。それで次に内包的客語即ち運字の客体はどうかと言うと之字がある。さきに申しましたように可の主語と直接客体の同主客であるときは内包的客語の客体は非帰着化するのでしたね。ここはどうかと言うと非帰着化してないんです。そうしますとこう言う結論が引き出せる。可の主語と内包的客語の客体とは同じではないのだと。つまりですよ、治天下と之とは異なるものだというわけです。ここで文法的に言えるのはどの程度までのことかと言えば、もうここまでとしか言いようがない。天下を治めることは転がせるものを手のひらで転がすに可なりという意味であるか、或いは可の主語は治天下で、之字は天下の可能性も無論ある。このとき之字は天下に寄生することで意義を補充されるという。この場合は天下を治めることは、之(天下)を手のひらで転がすに可なりとなる。ここで使った方法は兎に角、可の主語と直接客体との同主客であるかどうかだけを気にしたわけですね。実際これでこの句に関しては十分かとも思う。しかしですね、ここにもう一つ違った趣の句がある。

益壽而海中蓬萊僊者迺可見之

漢書郊祀志上

寿を増せば仙人、之を見るに可なりと。さてこれも先程と同様に成分を確認してきましょう。まず可の主語はどうか。仙人でしょうか。仮にそうだとしましょう。内包的客語の客体即ち見字の客体はというと之字がある。可の主語と直接客体との同主客であれば之字は非帰着化するのでしたから、これは同主客でないということになる。論理的に寿を増して仙人は何か之に相当するものを見るに可なりという意味は引き出せる。少なくとも文法的にこの解釈は否定し得ない。では、もうこれ以上文法的に演繹できることは無いかと言えば実はまだ理論的にはありうるんですね。それはなにか。最初に我々は可の主語を仙人としましたが、実は文法的にそうでない可能性もありうるんです。富而可求なんかは可の主語が通俗的に言えば富でしょうが、少し一般化して抽象度を高めれば其の場合であります。(方法或いは方法物などを)富にシテ其の場合が求むるに可なりという訳です。なぜ急にこんなことを言うのか。上の例文の構造を見やすくしますとこうなる。

益壽而迺可見海中蓬萊僊者

漢書郊祀志上 改変

寿を増して其の場合が仙人を見るに可なりというわけ。可の主語は其の場合。内包的客語の客体は仙人。よって二つは異なる訳ですから、非帰着化しないのは道理でありましょう。原文は見字の客体を提示していると考えましょうか。こう言うときも一般的非帰着化の理屈は適用できる訳ですが、もし適用して見字の客語之字を付さなかった場合どうなりましょう。可の主語と直接客体との同主客と区別がし難くなるため之字を残したのでありましょうか。


なかなか疲れますね。脳に効いてる証拠でしょうか。つづきはまた次回。

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