漢文と云えば何でも返って読まねばならないと考えてはなりません。
漢文法鉄則:
- 頭から読んで済む字はなるべく頭から読む
たとえば、
往観花於上野
を読み下して右図のごとくするも解釈上問題はありません。「上野に花を観に往く」、たしかに文の意味は其の通りであります。しかし、我々は慣習上このような訓読はしないのです。ではどうするかと云えば、「 頭から読んで済む字はなるべく頭から読む」のです。この場合は「往いて花を上野に観る」と訓むことになります。右図のような訓読は単に慣習上の読み方に反 するというばかりではなく、文法上も非常な誤りといえます。「往」は文法上修飾語として「観」に懸かっておるのです。「花を往観す」と熟して訓んでもよ い。すなわち「観」から「往」に返る道理がないのです。一般的には、左図のように返り点を附して読むことになります。文法的直訳をする場合は、「往いて花 を観る、上野に於いてす」とでもなります。(詳しくは『前置詞性動詞』自四百四十五項至四百五十五項参照)
以下の図も同じことです。「馬之千里者」は意味としては「千里なる馬」と考えて可なるも、文法上は「馬之」が「千里」に対して懸かっておるのです。嘗てGustav Störringが繋辞(copula)を「賓辞の変化」と呼びましたが、この「千里」は形にこそ変化はありませんが、繋辞の機能を失ったところの名詞です。「馬千里(馬、千里なり)」とは異なるのです。「千里」という概念そのもの、実体に「馬之」は懸かっておるのです。ですから「馬」は「千里」の主体ではありますが、主語ではなく連体語です。「馬之千里・者」を直訳的に読めば、「馬の千里なる・そのそれ」ということです。「花之美者」も同じです。「花美」とすれば、「花、美し」と主語と叙述語との関係に於いて観念は結びつきますが、「花之美」はそうではないのです。「美」という概念には最早繋辞としての性質は含まれておらないのです。「花についての美しかる」の意です。通俗な説明ではありますが、「息子の入学を喜ぶ」の「息子の入学(息子之入学)」とおなじです。息子が入学する、の意ではありません。息子についての入学することです。
「花之美(花の美しかる)」 ⇔ 「花美(花美し)」 ⇔ 「美花(美しき花)」
この三者の違いをよく玩味してください。
ちなみに塚本哲三氏は斯くの如き「之」を説明して、
関係代名詞的に下の文句が上の文句のモディファイアのやうになるもので、「馬之千里者」「花之美者」の類がそれである。これは「之」と「者」と同格だともいへる。畢竟「千里の馬」「美しい花」といふことである。 (『漢文解釈法』四百七十一項)
と言ってあります。すなわち「花之美者」は「花 which is 美」の如きものであるというのでありますが、漢文法上は上述した如くに考えるべきものと思います。漢文法に於いて被修飾語が修飾語の前に来ると言うことは倒置の場合を除いては無いものなのです。
- 練習問題
明治書院の『新釈漢文大系』では「愛憎之主」を「主之愛憎」として解すべきである、としてありますが、これは解釈のために却って原文を変更するものであります。解釈を主とすることは無論でありますが、これは文法を無視してよいというわけではありません。貴人に意見するものは主が(意見するものを)愛するか、憎むかを察して後、これに説けというのが解釈ではありますが、原文はその意を表すに「主之愛憎」とせずに、「愛憎之主」という形式で表しておるのです。「愛憎」を概念の代表部とせず、「主」を代表部としておるのです。「人の歩くを見る」と「歩くの人を見る」とは解釈上大差は無くても、文法上は大いに異なるのです。「主之愛憎」と云えば、「愛憎」という動詞に欠けた主体概念を連体語として補充し、「愛憎之主」と云えば、作用概念である「愛憎」が却って自らの主体概念である「主」に修飾語として従属しておるのです。いづれも連体関係とは雖も、一方は主体的連体語にして、他方は修飾的連体語なのです。すなわち人主にも色々あるが、(意見するものを)愛するの主であるか、憎むの主であるかを察せよ、人主と言うものは「公平無私之主」でもなければ「不愛不憎之主(偏って愛したり憎んだりしない主)」でもない、自分に近付く者を公平に扱うのではなく愛したり憎んだりする主というものを察せよというのです。「愛憎之主」はどこまでも「主」を代表部とする概念なのです。このような構文を私は連主連体(主体概念に連なる連体語の意)と呼んでおりますが、難しく考える必要はありません。「出たり入ったりする人」と言いたければ、「出たり入ったり」が作用(私はこれを叙述的連体語と呼ぶ)で、「人」が其の主体(私はこれを主体的被連体語と呼ぶ)でありますから、「出入之人」とすればよい。これを「人之出入」とすれば、「人」なる主体が「出入」なる作用に従属することになり、松下文法に所謂主体的連体語となるのです。此の場合の「出入」については松下博士は「叙述的被連体語」と呼んであります。
出だしの「諫説談論之士」も連主連体の構造です。「愛憎之主」は修辞上の理由でこれに構造を合わせたとしても、文法上はどこまでも上記の如く解せらるべきものであるのです。
【修飾的連体語と主体的(補充的)連体語の違い】
「愛憎之主」の「主」はもともと絶対名詞で概念に欠けたるところはありません。「月」なる概念にもともと「丸い」という性質が入っておるように、「主」なる概念にも「愛憎」の概念は潜在しておるのです。「愛憎」はその潜在しておるものを顕現したのです。其れに対して「主之愛憎」の「愛憎」はもとより作用でありますから、その主客体に対して相対的であります。補充せられんとするところの「愛憎」にはすでに一定の形式的空虚があるのです。漢文ではその空虚を連体語を以って補充できるのです。例)、「商品之販売」と云えば「商品」は「販売」の客体、「恩師之死去」と云えば「恩師」は「死去」の主体でありますが、いづれも文の成分としては連体語です。松下文法にては此くの如き連体語を特に相対的連体語といいます。「恩師之死去」の「恩師之」などは通俗には主体的連体語との区別などすべき必要もないのでありますが、厳密に申せば、やはり区別のあり得べきところであります。即ちここの「死去」は端から相対名詞であるのに対して、主体的連体語に対する被連体語は動詞であります。叙述性があるのです。然るに其の連詞全体が名詞化するため、いづれも最終的には連詞的名詞となり区別が曖昧となるのです(九三、七五七項)。
【参考】
堀重彰 『日本語の構造』(八七項、修飾関係と機能範疇)
塚本哲三 『更訂漢文解釈法』
『食其所愛之肉」について』(相対名詞を扱ってある)