【原文】
多尒世婆美弥年尒波比多流多麻可豆良多延武能己許呂和我母波奈久尒(三五〇七)
【訓読】
谷狭みみねにはいたるたまかづら絶えむの心わがおもはなくに
<多延武能己許呂タエムノココロ> まず松尾捨治郎の説を略述する。万葉集語法研究12項では始めにこのムを終止形として例示する。そうしてこの語法即ちム+ノの語法は普通ノをばトイウと解しムを終止形と見るものであると述べる。つまり絶えむという心と解すのが一般的であり松尾さん自身もとりあえずそう考えておるのではあるが些か不審があるというわけ。どういう不審かといえば或いは連体的機能の強調ではないかと(同書14項)。つまり次の一句と同じ構造ではあるまいかというわけ。
美勢牟我多米尒(ミセムガタメニ)(四二二二)
タメ(為)は名詞である。ミセムタメでも良いわけであるがガ(我)を入れて連体の機能を強めたものであると氏は言う。それでこれと同様のことが絶えむの心(多延武能己許呂)にも言えるのではないかと。即ち絶えむのムは終止形ではなく連体形ではないかということ。
これに該当するものは松下文法ではどう扱っているかをみる。この論点そのものズバリのことが改撰標準日本文法584項に書かれている。即ち終止的格1の実質化である。松下博士の引く例文にも同じ歌ではないが絶えむの心の例が挙げられている。
丹波道の大江の山のさなかづら絶えむの心我が思はなくに(三〇七一)
松下文法では諸種の終止的格は実質化して名詞又は無活用動詞となることがあると説く。この絶えむの例は名詞となる場合である。名詞となれば『絶えむの』は心に対して連体である。また585項に曰く
文語に於いて終止的格が実質化するのは未然態(む、じ)、完了態(つ)、疑問態(や、か)、及びラ行変格、形容性活用等だけである
- 松下文法には一般格というのがあるので終止格というとそれが除外されてしまうため終止的格とあるがとりあえず終止格と考えてよい。 ↩