前回の記事で可字の性能をひと通り見ました。それは何か。要しますに、
- 可の主語と直接客体の客体と同主客でれば、直接客体の客体は非帰着化する
これでしたね。反対から言うとですね、直接客体の客体があるならば即ち非帰着化していないならばですよ、例えば匹夫不可奪志というのは奪字に客語がありますね。非帰着化していない。こういう時に言えることは、可の主語と直接客体の客体は同主客ではないということなんですね。この例で言えば奪字には既に客語がある。つまり可字の主語は志ではないわけです。志が奪えぬと言いたいならば志不可奪でなければいけない。こうすれば可の主語と直接客体の志字が同主客となり後者の方は非帰着化することになる。原文はそうなっていない。なぜなら同主客に非ざるが為なりとまあこんな風に推論していくことができる訳です。
これは直接客体の客体が本名詞でありましたが、別に形式詞でもよい。
君德義薄,不可以聽之
史記樂書
聴字の下の之字は寄生形式名詞。要するに実質的意義は空虚であるから実質に対して形式というわけ。これも直接客体の客体が非帰着化してない。ということは可字の主語と直接客体の客体は同主客ではないということになる。同主客ならば之字は不要なわけ。では可字の主語は何か。曲か。其の曲が聴けぬと言ったのでは同主客となって背理に陥る。しかし聴く対象は曲でしょう。よって之字は曲と仮定する。可字の主語は之字とは異なるのであるから、曲以外である。何が不可なのか。君徳義薄の四字で良いではありませんか。薄い場合が之を聴くに不可なりというわけですね。
前回の記事にはさらに直接客体の客体が之字の場合にして且つ可の主語の如き位置にその客体が提示されてあると思われる例も一つ示しましたね。あの類の文も理論的にはただ少し理屈が重層的であると言うだけで殊更に変わったものではないでしょうが、他にも文例はありますでしょうか。
可と可以との相異
さてですね、それでここから今日の論点に入るわけですがね。それは何かと言いますと、可と可以との相異ですね。中井さんの論考では西田氏の考えとして可は行為の対象を可字の主語とし、可以は行為の主体を主語とするというのですね。氏の漢文の語法は本棚に入っているので見ようと思えば見れるのでありますが、中井さんの引用だけで十分そうに思われたのでそのまま行きますね。
まず私の考えから言うとですね。この西田氏の主張は確かに語法の現象を説明し得たものではあるのですが、その所以には触れておらないし、そもそもそういう場合が多いと言うだけで必ず然りというわけではない。松下文法はなんて言ってるんだと問わば、ただ両者は可能の意の明瞭さの違いである(標漢二一七)と、まあ直接的にはこれだけなのです。松下博士が可と可以の場合の其の主体なり、内包的客語の客体なりを考えていない事はあり得ないことと思われますので、私としては西田氏の主張はまだ真理を説明し尽くし得たものではないと考えるわけですね。
可以託六尺之孤
これは可以。西田氏の主張に従えば、西田氏はそんな例文を想定していないと言うでしょうが兎に角氏の主張に従えば、可字の主語は託字の主体とはなる。しかしこの句は君子とは如何なる人かについてを叙述したものであるとすれば、君子可以託六尺之孤となる。可字の主語である君子と託字の主体は同じでしょうか。文法は無論同じであることを否定はしない。文法は常に解釈の淵源の境界を制限はするが、決して一通りの解釈に導いてくれるわけではないのです。
さて、西田氏の想定する句は以下の如きでありましょう。
君可以去矣
吾不可以累公
可の主語をそれぞれ君、吾と一先ず見なしましょうか。そうすると確かに去、累の主体と各主語とは一致しそうですねえ。しかし先程も申し上げましたように松下博士はこう言うことには言及していない。以の有無は可能の意味の明瞭さに影響を与えるという記述のみなのです。ただ間接客体の特殊性非帰着の所(私よくこの一般と特殊を言い間違えてるので注意)で以字の客体、これを間接客体というのですがそれは要するに可字の直接の客体は内包的客語で先に直接客体と言ってあるのは内包的客語のことですが、以字の客体は間接的に可字の客体であるからこう言うのですね。これはただの名称の問題ですからそう言うのだと覚えれば済みましょう。それでまた話戻りますがとにかくですねえ、特殊非帰着のところでこの間接客体と可字の主語とは同じである、同じであるから間接客体のほうは非帰着化する、とまあこんな事が書かれてあるのですね。言ってることは直接客体の客体即ち内包的客語の客体の非帰着化と同じ所以に則るのみです。そういう訳で再び上記の例文を見てみましょう。
君可以去矣
以字が非帰着化してますね。君が去るに可なりでもよいのですが、そうやると「君」が可の直接的つまり小主語に見えてしまう。小主語というのは例えば首が長いで言えば、この文は既に欠けたところがない。「首」が長いの主語であり「長い」はこのとき合主となります。しかしここで更に分主的に考えて鶴が、首が長いとやるとこのとき鶴を指しては大主語と言い、首の方を指して小主語というのですね。それで話戻りますが、君以て去るに可なりという時の「君」は本当に可の小主語的なものでありましょうかというのが憚りながら私の考え。些かややこしいのですが、可の小主語に相当するものは既に合主化していると考え、既に合主化しているものへの「君」であるから其の意味で「君」は直接的な主体とも無論言えます。しかしその合主から再び分主へ行く行き方は端から分主であるものが合主化しその後再び大主語により分主するのと同じことでありますから、同理を適用するにも吝かなるに及ばぬと考えるわけです。
詳しく述べていきます。私の考えではこうやると大体うまくいくと思うのであります。つまりですよ、以字は非帰着化しておるから其の客体と可字の主語は同じであるわけですが、ではその主語は何かと言えば君ではなく、「ある場合」であろうと思う。ここの例なら説話者の頭の中にある「今という場合」、これが可の主語で其の場合を以て去るに可なりというのではないかというわけ。其の場合が合主化して主語の如き位置に君が置かれてありますが、これは大主体、或いは大主語と言っても支障はないかも知れません。私がこの考えを思いついたのは松下博士の可能被動の論考を読んでであります。
子供にこの本「が」読めぬ
この本 不可 読
漢訳すればこうなりますが、子供の二字をどこに入れましょう。子供に於いて不可なわけですから、可字の客体です。
この本 不可 読 於 子供
この子供を頭に持ってきて於字を削れば
子供 この本 不可 読
こうなる。更にこの本「を」子供に読めぬというのならば、
不可 読 この本 於 子供
この子供を頭に出して於字を削ると
子供 不可 読 この本
こうなる。しかしこれだと可字の主語は何でしょう。そもそも客体に欠けたる概念もありません。またもともと子供は修用格であります。そうは言っても可字に主語無くんばあるべからずであります。ここで私はそれを「ある場合」であるというのです。つまりある場合についての叙述でありますから
ある場合が、其の場合を以てこの本を読むに不可なり(「ある場合」 不可 以「其の場合」 読 この本)
こう考えるわけですね。ここで可字の主語と間接客体の同主客による特殊性非帰着化の理論を適用すれば
子供 ある場合 不可 以 読 この本
こうなる。更にある場合などというのは大体合主化するものであります。なぜというに其の場合というのは説話者の頭の中で作用とは未分化であることが多いとまあこう考えてですね、合主化させますと、
子供 不可 以 読 この本
こうなるんですね。もともと子供は大主体でありますから、子供には(例えば漢字が難しすぎる場合など)以てこの本を読むに不可なりとやるわけ。
夫人有徳於公子、公子不可忘也
これも人有徳於公子、不可以忘で十分思想を表せましょう。ただ最初の句を断句的修用語として、後句は一種の被修飾的形式詞として合主化させ、間に公子と入れればやはりこの公子は一種の大主体であります。即ち、人、公子に徳有りとせば、公子に於かれては(其の場合が)忘れるに不可なりという塩梅です。以字は文法的には可有可無とはなる。もし以字があれば「其の場合」を以て不可忘であるという思想が明示できるのみ。これが博士の言う可能の意の明瞭不明朗の意に如何に関連するか今は断言し得ず。
匹夫不可奪志
可以託六尺之孤
それでは最後にこの二つに対してこれまでの仮説に従って述べてみたいと思います。まず前者。これは直接客体の客体が非帰着化していない。よって可の主語と志とは別である。では可の主語は何か。匹夫か。それも不可とせず。ただ匹夫は大主体ではないでしょうか。可の主語は既に合主化しており仮にそれを示せば「その場合」でありましょう。「その場合」が匹夫に於かれては志を奪うに不可なりという訳合です。無論、以字を入れても良い。入れれば、「その場合」が以て志を奪うに不可なりとなる。
次。可字の主語はやはり「ある場合」でありましょう。「ある場合」が以て六尺之孤を託すに可なりというわけです。原文に即して訳せば、「ある場合」が以て六尺之孤を託すに可なれば、君子人なる場合か、というわけ。君子人に於かれては、その場合が孤児を託すに可なりというわけ。即ち原文は大主体を被修用語にしておるんです。
一先ずこれで可論を終えますが、これで大体の可字が一通り無難に解決できるかどうかは多くの文例に当たるしかありません。その上でこの行き方では無理があるという方はどうかお知らせください。