まず反語とは何かということでありますが、これは簡単に言えば反転的疑問のことです。要するに疑問の一種です。疑問には普通の疑問と反語とに拘わらず、以下の如く二つに分けられます。
- 思惟の反省を表す記号
感動詞: 乎、與等
副詞: 豈
「豈(あに)」は、「何(なんぞ)」や「焉(いづくんぞ)」の如く判断される材料の疑問ではありませんで、思想そのものを試みに「そうであろうか、どうであろうか」と反省してみるのです。このような記号が無い場合も無論あります。またこれらがあるからと言って必ずしも反語(反転)となるわけではありません。ただ思惟の反省なることを表すのみです。「たった百円を惜しむか」と言ったところが、前後の文脈次第では強い疑問にも、反語にもなるのです。またそのどちらであるか判然としない場合もありうるのです。リッケルトは其の著『認識の対象』に於いて、主観と客観の対立を三種に分かちましたが、それを適用すれば是は其の第三種の「意識対意識」と言えるものです。自身が知覚したものを再び自身で覚知せんとするのです。内在的客観を意識するものが主観となります。もと一なるものを敢えて二にするのです。高橋龍雄氏は日本語の動助辞の「と」を結果格と名付け、このようなものは日本語の特有にして英語や漢文には無いと論ぜられておりますが、是に相当する観念の運用の仕方はあって然るべきであり、其れがこの「意識対意識」に当たるのではないかとひそかに思う次第でありますが、如何。
とにかく疑問(反転)の例を見ておきましょう。
- 豈上之人無可援、下之人無可推歟 (韓愈・與於襄陽書)
- 卷舒不隨乎時、文武唯其所用、豈愈所謂其人哉 (同上)
前者は「上に援くに可なるもの無く、下にも推すに可なるもの無い、果たしてそういうことであるか」の意で、もし「いや、そんなことはない」の如き意を帯びれば反転したというまでで、端から反転しておるわけではないのです。後者も「此の人こそ愈(自己名)の所謂其の人というものである、果たしてそうであるか」の如くまづ一旦疑を以って其の思想を反省しておるのです。ここでは反転せず、「然り、此の人こそ私の所謂其の人である」の意になっておるというのみです。文法上はどこまでも思惟の反省であります。
漢の高祖、創業を成して故郷の宴会にて歌った句の一節に以下の如きあり、
安得猛士兮守四方 (大風歌)
どうにかして勇猛の士を得て四方の境を守らせたいの意であります。「安」は不定の疑問副詞で、ここでは反転せず。
君不見管鮑貧時交 (杜甫・貧交行)
嘗て管仲と鮑叔とが互いに堅い知己の交わりを結んだのを知っておるじゃろう、の意であります。「不見」は思惟の反省であります。「見るということがない、果たして然るか」の意であり、而して後語勢により反転し、「いいや、見たであろう」の意を生ずるのです。
松尾捨次郎教授曰く、
「敢不」の説明は、實に麻姑を雇うて痒きを掻く様な感がある。十數年前のこと、文検の問題に敢不行と不敢行とを區別せよといふ問題の出た時、自分は某漢学者と議論したことがあった。それは敢不行は元來行かざるを敢てす即ち不行といふことを思ひ切ってする意である。其が漢文によくある反語(形はもとのままの)に轉じて敢て行かざらんやの意に轉じたに過ぎない。初めからそんな意がある筈はない。といふのであったが、適當な例証を擧げ得なかった為に、對者を首肯させ得なかった。然るに本書(標準漢文法)に眞の例証が適確に示されておるのは、實に心ゆく次第である。 (国語と国文学 「標準漢文法を読んで」)
これは「敢不」の反語化についての話でありますが、松尾教授も「初めからそんな(筆者註:即ち機械的に反語化する)意がある筈はない」と述べておられるとおり、外形だけで意義が反転しておるかどうかは分らぬ。