考察を要する疑問(前件と後件との関係)
考察を要する疑問(前件と後件との関係)

考察を要する疑問(前件と後件との関係)

10月 29, 2013 追加

11月 01, 2013 改(例文追加)

11月 11, 2013 例文追加

12月 29, 2013 改

原因・理由・方法 ⇔ 結果・目的 との扱い方と、詞に表れる順序について

「暖酒」を理由(また方法)とするのが、松下文法上の見方でありまして、『標準日本口語法』(二六八項)には、

思想から言へば酒を暖めるといふ予想が理由になって其の為に紅葉を焼くのである。酒を暖めようと思ふことが前件で紅葉を焼くといふ動作は後件である。

とあります。客観的時制に於いては紅葉を焼いてから酒を暖めるのでありますが、思想上は「酒を暖める」が先なのです。「暖酒」なる主観的思想を方法として経由して、「焼紅葉」なる客観的作用の成立に至るのです。ゆえに詞としては先に配置されるのです。

  • 目的も理由も他物の動作を助成するという点で統一的に考えられる

仮言的命題の前件と後件との関係の種類

  1. 生起上の関係(原因・結果)
  2. 理想上の関係(全体・部分)
  3. 知識上の関係(理由・所知)

大西祝『論理学』(付録第一)、松尾捨治郎『国語法論攷』(三八〇項)参照。

南村群童欺我、老無力 (杜甫)

楊伯峻 はこの句を原因を謂語(判定の対象に対する判定概念)に取る兼語式(「我」は「欺」の客語と「老無力」の主語とを兼ねる語)という。松下博士も動詞が原因に対して帰着化することを説くとは雖も、上文を然解するは牽強付会の嫌い在るものの如し。私見を敢えて述べますれば、上記2か3かの関係と考えることやや穏当のように思われます。すなわち「南村の群童が我を欺く」をまづ見る(理由)、而して後「我の老いて無力なる」を知る(所知)のである、と。もとより「南村の群童が我を欺く」が「我の老いて無力なる」ことの原因でないことは言うまでもありません。もし悪童が欺くから我が老いるというのならば、悪童を無きものとすれば、我は老いないということになってしまうからであります。しかし事実はどちらかといえば、この二つは両方共在的にあるものでありましょう。悪童が先でもなければ、老いて無力な我が先でもない。そう考えますと、あるいは「南村の群童が我を欺くこと」と「我の老いて無力なること」とは全体と部分、理想と其の理想に合括せらるる個々との関係なること唇歯輔車の如きものと言えましょうか。いづれにしましても前件と後件との関係は活用や助辞の発達した日本文法に於いてすら明瞭に区別しないところでありますから、況やそれらの不明瞭なる漢文に於いてはなおさら注意を要することであります。


簡子我使掌與女乘王良 (孟子・滕文公下)

「我使掌與女乘」の思想が理由となって、王良に謂うのです。「王良我使掌與女乘」とは文法的意義が異なります。一方は思想を方法として、他方は記号動詞としての動作を方法とするのです。

林間暖酒、燒紅葉

の前句をして明瞭に思想の理由たるを表示せしむれば、「林間暖酒」とでもします。「林間にて酒を暖めんとて」の意です。


  • 於是信孰視之、俛出袴下蒲伏 (史記・淮陰侯列傳)
  • 故曰責難於君謂之恭、陳善閉邪謂之敬、吾君不能謂之賊 (孟子・離婁上)

俛して袴下より出て匍匐す、とは如何にもおかしな語順でありますが、「林間暖酒、燒紅葉」と同様、主観的思想を方法として経由して、客観的作用の成立に至る者と看做せましょう。「吾君不能謂之賊」などは注疏に、

如不責君之難、不陳善而閉君之邪、而乃我君不能行善、因不諫正之者、是謂殘賊其君者也

とあり、「吾君不能」なる主観的思想の客観視せられておることが明瞭であります。


元良勇次郎博士『心理学概論』(三四七項)に心内の原因の物界に跨る所以を述べて曰く、

心中の原因結果は直接経験にして、純経験なりと雖も、物心に跨りたるもの、若くは物界に存する関係は心中の経験に由来し、比論によりて之より推し広げられたるものなるべし。換言せば原因結果の関係は、必ずしも凡て純経験なるにあらず、其の無限なる連鎖の或る一部分、即ち心中の力的経験のみが純経験として表るるものなり

純経験にあらざる者即ち間接経験というにあらねど、間接経験になりたるものは之を経験中に於いて相互に連絡せられたるもの(同三一九項)、即ち他動的客体を持たぬ一致性を帯びた動詞と言うを得るか。

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