根本通明先生の詩経講義に、
惠于宗公、神罔時怨、神罔時恫 (詩経・大雅)
この「時」を「この」と訓んである。「この」すなわち副体詞として訓むことが間違いとは言えないにせよ、其の場合は山田孝雄博士の語を借りれば「この」は「怨」、「恫」の決素(要するに陳述)ではなく属性観念に懸かっておることになります。松下博士は代副体詞の主体的連体語の用法を説いておりませんから、命名に難きも強いてすれば「代副体詞の主体的連体語」とでもなりましょうか(もしくは既に「怨」「恫」が名詞化しており、之に対する修飾的連体語とするも可)。いづれにしましても動詞の概念の実質に懸かっておるものとして解することになります。しかし、此くの如き「時」は代副詞として「これ」と訓まれることのほうが一般的でありましょうか。
註には、
文王為政、諮於大臣、順而行之、故能當於神明、神明無是怨恚、其所行者、無是痛傷、其將無有凶禍 (毛詩正義)
とあります。「大凡讀書、須是熟讀」の「是」と同じであります。代副詞として訓むにしましても、その意味は『詩経今註今譯』にあります如く「同是、因而(是に同じ、因って而してなり)」の意と考えるに可なりましょう。実際に書き換えてみますれば、
神罔因而怨、神罔因而恫
となります。「神罔時怨」を訓読して「神時(こ)れ怨罔(な)し」とすると、「時」が「罔」に懸かっておるように聞こえますが、そうではなく、「怨」に懸かっておるのです。それは原文を見れば分る。「患禍無由入」などの「由」が「入」に懸かっておるのに同じであります。分り難ければ「神罔所以怨」とし、「神、(ソレヲ)以って怨む所(のソレ)罔し」と考えればよい。
無論、「時」にも「是」にも代名詞としての用法がありますから、否定的意義を表す詞を戴く連詞的動詞の客語が帰着語の上に出たものとして、すなわち「莫之能守」の如きものとして考えるも可であります。其の場合には「時」を「これを」と訓むことになります。
解釈に於ける相違
「時」を「この」(副体詞)と訓ずる場合:天神様に、其の怨みいたむのあること無し。
「時」を「これ」(副詞)と訓ずる場合:天神様も、怨みいたむに由無し。
「時」を「これを」(名詞)と訓ずる場合:天神様も之を怨みいたむことは無い。
口語に訳せば、「天神様も怨みいたむことは無い」くらいなものでありまして、「時」の文法的性能の微妙な差異は反映させ難いものであります。