「未然形+ば」と「已然形+ば」
「未然形+ば」と「已然形+ば」

「未然形+ば」と「已然形+ば」

漢文の読み下しでは「未然形+ば」と「已然形+ば」とをあまりやかましく区別しないようにも言われまして、また実際そう考えても差し支えはないのでありますが、厳密に申せばそれはちょっと違うのであります。そもそも「未然形+ば」が仮定で、「已然形+ば」が確定(既定)を表すなどとするから話がおかしくなるのであります。たとえば大野晋氏の『日本語の文法』を見ると未然形に附く「ば」は仮定条件で、已然形に附く「ば」は確定条件であると記されております。然るに松下博士の言を引けば、

従来は拘束格を順態条件法或は順態接続法と云った。それはまあ善いとして到底忍ぶべからざることは右の例の(二)「何処も水道有れば水便なり」のようなのを確定条件法と称することである。単に形態に由って「ば」の第一活段(筆者註:所謂未然形)へ附いたものを仮定とし、第五活段(筆者註:所謂已然形)へ附いたものを確定とする。これは論理学の承認しないところであることは云々 (『改撰 標準日本文法』五三六項)

とあります。「水道有れば水便なり」の「有れば」は、「何処も」という修飾語が有るために「(実際に有るか無いかは別としてもし)有る場合は」(仮定)の解釈となりますが、仮に「東京は水道有れば、水便なり」とあれば、この「有れば」は口語に解釈すれば「(実際に)有るから、有るので」(確定)の意となります。要するに外形上からだけでは「已然形+ば」が仮定の意なのか、確定の意なのかは判然としないのであります。また三矢重松博士は「已然+ば」が仮定を表す場合を不定(一般)と名付け以下の如く述べておられます、

(「雪ふれば寒し」の)「ふれば」はすでに降りてありといふ意のときは、已然といふもやや可なれど、一般には「雪のふる日はさむくこそあれ」などと同一にて時に関係なし (中略) この「ふれば」といふは、降る降らぬの問題にあらずして、兎に角「ふると」「ふる時」といふ意なり。不定(一般)は、詞の上よりは確定と同形なれど、意味は異なり。  

  • 世をそむく苔の衣はただひとへかさねばうとしいざふたりねむ (遍昭・後撰集) (『高等日本文法』一〇二項)

「かさねば」は実際に貸すかどうかは言わず、単純に貸さない場合はどうかといえば、その場合は冷淡だ、というのです。

「君は癌なれば手術が必要だ」の如き文も、理屈だけで言えば、「(癌かどうかは知らぬが仮に)癌の場合は手術が必要だ」の意にも解せますし、「(実際に)癌なので手術が必要だ」の意にも解せるわけであります。

散りぬれば後はあくたになる花を、思ひ知らずも惑ふてふかな (古今和歌集) 君をおもひおきつの濱になくたづの、尋ねくればぞありとだにきく (古今和歌集)

忠房の歌の方は詞書に「貫之がいづみの国に侍りける時に、やまとより越えまうできてよみてつかはしける」とありますから、「(実際に)尋ねた場合が、無事にてあるという場合である」(確定)というわけです。「散りぬれば」のほうは、実際に散ったかどうかは言わず、ただ一般的に仮に散った場合のことを言っておるのです。これを強いて確定として訳せば、「今現に散っておるので後はあくたになる花を云々」の如く解すことになります。

要しますに漢文にて「未然形+ば」と「已然形+ば」とを区別しないといいましても、それは決して仮定と確定とを区別しないのではなく(第五活段に附いた「ば」の仮定、確定の区別は文脈による)、単に未然的仮定と一般的仮定(松下博士はこれを現然仮定と謂う)とを区別しないのみであります。すなわち「散りなば」はもちろん、「散りぬれば」にも仮定的用法があり、その二つの区別をば漢文訓読にては殊更にせず、概ね「已然形+ば」にて済ますことが多いと言うわけです。

東条義門の著『活語雑話』に「不奪不饜」(孟子)の読み下しについて、

  • ウバハズンバアカズ
  • ウバハズンバアカジ
  • ウバハザレバアカズ

などを揚げて一偏にのみいひがたきに似たる例と言ってありますが、「ウバハズンバ」と「ウバハザレバ」の区別はただ未然的仮定か一般的仮定かの区別、すなわち「奪わないならば」と「奪わない場合は」の如き区別でありましょう。いづれも仮定であります。実際にどうかは知らんが、仮に奪わない場合はどうかと云えば、飽くことを知らぬ場合であると言うのです。「ウバハザレバ」を確定として訳せば、実際に奪ってはおらない場合にて、飽くことを知らぬ、となります。

中村惕斎の『論語示蒙句解』に論語鄉黨の「執圭鞠躬如也」章を述べて、

蓋し聘は君の命をたつとぶによりて、敬にあらざれば、其の礼をつくすことなし、享は君の意を達するによりて、和にあらざれば、其の礼をつくすことなし。

とあります。いづれの「已然形+ば」も未然的仮定ではなく現然仮定であるというのみにて、決して確定ではありません。すなわち「敬でない場合は、どういう場合かと云えば、其の礼を尽くすことのない場合であり、和でない場合は、どういう場合かと云えば、其の礼を尽くすことのない場合である、故に敬であり、和である場合は、どういう場合かと云えば、其の礼を尽くす場合である」というのであります。

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