『標準漢文法』六八一項に「単純提示語」を説明して曰く、
単純提示語は、単に特に注意されて提示されるもので、題目として考へられないものである。日本語で言へば「は」「も」が附かずに「だに」「さへ」「すら」「まで」「や」「か」「ぞ」「こそ」などの附くものである。漢文では或は形式感動詞の「也」「乎」などを附け、或は副詞「且」「尚」「是」などを附け、或は唯前後の関係に由る。
実は松下博士による「題目語」と「単純提示語」との区別はここの記述くらいのもでありまして、どうも意を尽くさぬもののようであります。「は」「も」と「ぞ」「こそ」などとは如何許り異なるのかということを山田孝雄博士に尋ぬれば『日本文法論』(六五〇項)にこうある、
「は」がかく拒斥的に指示するに対して「ぞ」「なむ」「こそ」は特示的に若くは卓絶的に指示す。「は」と異なるところは唯其の意義にあり、作用に至りては別に異なるところ無し。
また浅野信氏はさらに明確に「は」とそれ以外の係り・副助詞との違いが程度の差に過ぎぬことを述べておられます、
係りの勢力というものは、実は云わばただ「は」にのみあるのではなく他の係り助詞にもあり他の副助詞にさえもあるものである。ということは、実はそういう勢力というものは、この係り助詞にあるのではなくして、更にその根底にひそむいかなる助詞をも拒否した零格(助詞)の題目語にあるのであって、「は」は其の本趣とする強調(特別のことわり方)の意を添えるものの代表的なものとして慣用されているに過ぎないものなのである。 (中略) 遂に(山田)博士の発明と考えられた「は」(及び一連の係り助詞)の意味は、博士の云われるごとき、其の陳述に(一定の)勢力を及ぼす云々のごときものではなくて、単なる(主体者)の意識ないし認識の仕方(時には感じ方)の強(弱)ということの表明にしか過ぎなかったのである。 (『日本文法文章論』六項)
浅野氏の説に則れば、松下博士の題目語のうちの「単説題目語」及び何らの形式詞の助けを借りない「単純提示語」、すなわち所謂零格(松下博士の所謂格の実質化したもの)の題目語こそ「われわれ日本人の(そして広くは世界人の)判断表現における広義の主述文の(主語をなすものであり)題目語としての真実のすがた(形態)なのである」(同一一項)ということになります。
- 其母不愛、安能愛君 (韓非子難一)
- 危邦不入、亂邦不居 (論語泰伯)
赤字は文法的に申せば「概念の題目的扱いにあるもの」と言うことになります。これを「其の母をば」と訓もうが、「其の母をすら」と訓もうが、それは解釈の話しでありまして、文法的にはどこまでも概念の扱い方の表れを零格を以ってしておるとしか言えない(厳密に言えば無格化したものの再有格化、『改撰 標準日本文法』五九七項)。浅野氏の言う「主体者の認識の仕方の表明」を漢文は語順を顛倒せしめることを以ってするのです。「其の母については、どうかといえば愛さない」というまでです。無論、もとから主体概念である場合には提示されておるのか、平説であるのかの区別が外形上判然とは致しませんが、意義から決着できることが殆どです。
係り助詞の類は西洋語にこれに該当するもの無きも(山田『日本文法論』六三五項)、「すら」などの副助詞は英独語にては独立詞である副詞を以って訳せずんばあるべからざるものでありますから、零格に特提的意義ありとは雖も、本来はこれが思念を表すには漢文にても語序以外の明確なる標識に依らなければとても叶わぬものでありましょう。然らば以下の如き文をこそ、副助詞を以って訳すべきものと言うべきか。
- 且家人父子尚不能以此自克 (柳宗元・桐葉封弟辯)
- 獸相食且人惡之 (孟子・梁惠王上)
上記の「且」は品詞上は寄生形式副詞(所謂接続詞)でありますが、前者をば特に連名詞性副詞とも言います。下の語の意義に対して付加的なもので、提示なる文法的性能は「家人父子」にあるのです。「家人父子すら」の義を成すのです。「家人父子すら」(無格)が提示されておるのです。「獸相食」は「獣の相食むことを」(有格)が提示されて、これの下詞に対する関係が「且」により修飾されるのです。「獣の相食むことをすら」であり、「獣の相食むことすらを」ではありません。「且」(詞)は意義は「すら」(辞)に当たるとはいえ、文法上まったく異なることに注意してください。
とは云いますものの、日本文法に於ける係り助詞や副助詞の類は漢文に於いては之を併せて語序、形式感動詞、副詞などによって、すなわち単純提示語として表す、と緩やかに広く考えるのが穏当と言えましょう。この考え方は徳田政信博士の「『だに・すら・さへ』は、私は係助詞に入れたい。厳密には係助詞とは提示のムードを表現しているものなのであるが・・・・・・。(中略)(すら・だにの)表現性の上からは、むしろムードを表している事に注目せねばならぬ」(日本文法論・三〇二)という記述も亦与って力あるものと思う。
- 結論
要しますに松下博士の所謂提示的修用語は、題目語も単純提示語も、いづれも浅野氏の所謂「主体者の認識の仕方の表明」であり、徳田政信氏の言を借りれば、「客観的事象の主体ではなく、主観がある事柄に対して注目し、判断を加えているという点からすれば、論理的主語というよりは、むしろ心理的主語といったほうがよいのかも知れない」(『改撰 標準日本文法』解説篇二六項)ということであります。
「すら」について(補足)
「すら」の語原は、「其れ」なり。「ソ」が「ス」に転じ、「レ」が「ラ」に転じたるにて、今の口語に、「ソラ御覧なさい」、「ソラ火事です」などいふ「ソラ」が、「其れ」の転なると同様なり。 (中略) 「食ふそらもせん」の如く云ふ「そら」は、心地の意に使用するなれど、実は指示の「其れ」の転の「其ら」の義にて、「すら」と云ふも同一なり。かくの如く「すら」は指示語の転用なるゆえ、「だに」、「さへ」よりは、語気甚だ鋭し。「草木すら春は咲きつつ秋は散りぬる」は、「草木其れでも、春は咲き、秋は散っていくではないか、まして人間は」の意にて、草木の軽きほうを指して、人間の重き方を、言外に悟らする静助辞なり。 (新井無二郎 『純正国語法基源』八一四項)
「すら」の語原が指示語なれば、以下の例文と対照すれば亦発明するところもありましょう。
- 富貴不能淫、貧賤不能移、威武不能屈、此之謂大丈夫 (孟子・滕文公下)
「すら」は助辞として前言を指し、「之」は形式名詞として前言を指すものであります。漢文に於いては「すら」の意を表すに単に語序に依るか、更に副詞「且」「尚」などを用いるわけです(松下大三郎 『標準漢文法』七〇七項参照)。