放任終止格
放任終止格

放任終止格

普通に終止格というのは松下文法では直裁終止格に当たる。即ち第三活段である。

君恋ふる涙にぬるる我が袖と秋の紅葉と何れまされり

こう言うのは疑問態とは言わない。表明態の疑問というのだろう。例えば標日507項に言う、

玉葛花のみ咲きて成らざるは誰が恋ひならめあは恋ひ思ふを

これは表明態であるが『誰が』が上にあるから断句は疑問になっている

また標日786項に言う、『何』『誰』『如何』『幾』などは係ではない。『の』『が』を係と思うの誤りであると。

松尾捨治郎は万葉集語法研究17項に、『や』『か』に対する結びは連体形(ここでは助動詞『む』について)を用いるのが原則であるのに万葉にはこれを已然形『め』で結んだものがあるとある。然るにそこで挙げられている歌を見ると『や』も『か』もない。

玉葛花のみ咲きて成らざるは誰が恋ひならめあは恋ひ思ふを

見えずとも誰恋ひざらめ山の末にいさよふ月を外に見てしか

他の証歌もいづち、如何になどの疑問詞はあるがそれのみ。しかし先に引いたように『誰』等の疑問詞自体は係ではない1。それはそうとこれらが已然形で結んであるところが、それは松下文法に言う放任終止格である。係でないから普通に終止で結ぶのみであろう。

榜渡乍毛相語益遠(三二九九)

こぎわたりつつあひかたらめを。これも松尾さんは連体の下につくべき反戻の意の『を』を已然形『め』の下に付けてある例としてあるが、無論動詞にも他動格はあるが(その場合はあひかたらむを)ここは放任終止格の実質化のように思う。

また松下博士の記述に興味深いのは以下のごとし。

事柄の然るべきことを放任的に表すので、そうもあろう、そうあるべきである、そうなければならない、そうかもしれない、そうあっても構わない、そうに違いないと言うような表し方である。

放任終止格は未然の意を帯びる。『玉なれや』は『玉ならむ』の意、『折しもあれ』は『折しもあらむ』の意、皆そういう風に未然の意を帯びる。しかし意味は強い。(標日507項)

  1. 松尾捨治郎論攷108項辺りを読むと或いは氏は疑問と言う性質が連体の結びを引き連れるものと考えておられるよう。

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