客体概念の扱いについて(廣池千九郎氏の『支那文典』より)
客体概念の扱いについて(廣池千九郎氏の『支那文典』より)

客体概念の扱いについて(廣池千九郎氏の『支那文典』より)

『支那文典』七百七十五項に以下の如き例文あり。

  • 使弈秋誨二人弈、其一人專心致志、惟弈秋之為聽 (孟子告子上)
  • 先公少孤力學、咸平三年進士及第 (歐陽修瀧岡阡表)
  • 醫生全通從八位下叙、通八以上大初位上叙 (大寶令)

而してこれらに説明を附して曰く、

  • 「為弈秋聽(弈秋に聴くを為す)」と為すべきを、弈秋をば場所の副詞として上に置けるなり、「聴」は名詞形にして目的格なり。
  • 「為及第進士(及第を進士に為す)」、「為叙従八位下(叙するを従八位下に為す)」、「為叙大初位上」などとすべきを、慣用にて「為」を省略して完成言を上に置きて目的格と説明語とを兼ねたる如き動詞を下に置けるなり

と。完成言とは自動詞に概念を補う補足語と考えてください。松下文法に所謂依拠格的客語です。

まづ「惟弈秋之為聽」が「為弈秋聽」の変形であるというのは文法上誤りとはいえない。「為」には松下文法に所謂依拠性(要するにニ格を取る性能)を帯びることが確かにあります。「為之禍福」とすれば「之に禍福を為す」などと訓むことになります。この理屈を適用すれば広池氏の説は当たっておることになりますが、文法上はさらにこのようにも言えるのです。即ち本来「惟為聽弈秋(惟弈秋を聴くを為す)」とあるべき「聴」の客語「弈秋」を前に出したものであるかも知れんのです。「為」はいづれの場合も他動性の帰着形式動詞で無くてもよい。「卒業」も「卒業をする」も無活用動詞か有活用動詞かの違いこそあれ、どちらも動詞である様に、「為」が無くても他動格的客語には作用の概念が含まれておるのです。『標準漢文法』にはこの「為」を説明して「動作を表す名詞を客語に取る」と言っておるくらいであります。よって「惟為聽弈秋」は「惟聴弈秋」に同じです(『標準漢文法』二一一項、楊伯峻『中国文語文法』二五二項参照)。

「進士及第」は「進士に及第す」と訓まれますが、この読み下しを素直にもとの漢文に戻せば「及第進士(進士に及第す)」とならなければなりません。広池氏はこれを「進士」という完成言、すなわち松下文法に所謂客語が上に行き、「及第」なる語が目的格と説明語を兼ねる、すなわち「為及第(及第を為す)」の如き性能の詞となるといっておるのです。広池氏の説に従えば「進士及第」は「進士為及第」であり、「進士」なる客語が帰着語である「為」の上に出たという理屈になります。その意味では氏の説は上記の例文に於いてよく整合しておるとは言えましょう。ただ「及第」が「為及第」の如き所謂変態動詞であるという見方が当たっておるかどうかは私には分りません。無論、仮に変態動詞であるとしても、結局客体概念の提示という概念で扱えますので、松下文法に則って学習したとしても上記の如き文法的解釈を漏らすことはありません。

しかし、松下文法に於いては名詞の修用格的用法(*)というものがありますので、上記の「進士」「従八位下」「大初位上」などは客体概念の提示とせず、名詞が副詞的に用いられて、下の詞に従属しておると考えてもよい。はたまた「及第」の陳述性を無視し、且つ「及第」を相対名詞(作用として客体概念に対して相対的)と看做し「進士の及第(進士に及第すること)」の意に取るもまた可であります。「牛馬之屠殺」「商品之販売」というに同じ構造です。

(*)広池氏の文典でも『名詞を他の品詞に用いる事』(七八項)なる項を設けて名詞の副詞化を説いてはありますが、氏は名詞が副詞的に用いられるとはせずに、名詞が副詞になると述べておられます。そもそも氏の名詞の定義からして私にはよくわからないのでありますが、こう述べてあります、「名詞と申すは有形無形すべての物の名称を指したもので、人名、地名、物名は勿論、物の性質、有様、若しくは動作に関する抽象的の名称、即ち八品詞と分くるときに形容詞動詞などと云はるる語までも、見様によりては皆此の名詞といふことが出来る」と。どうも定義が定義たり得ておらない嫌いがある。松下文法ではたといそれが名詞の如く用いられようとも、動詞は動詞、形容詞は形容詞であります。ただ体言という概念で決着しております。名詞も運用せれるれば用言であります。品詞自体があっちへいったりこっちへいったりするわけではないのです。本性と偶性とを峻別しておられるのです。広池氏によれば「隣家(之)丘」の「隣家」は名詞であるが、「丘」を修飾してあるからその場合は名詞にして形容詞であるというのです。而してこれを名詞形容詞(『支那文典』四四三項)と名付けておられる。松下文法に則れば此くの如き「隣家」は名詞にして「丘」に対して連体語であると説明せらるべきものであります。つまり品詞としてはどこまでも名詞(本性)であり、ただそが連体格的(偶性)に運用せられ、下の「丘」なる名詞の実体に従属しておるのみである、とこう説くのです。


広池氏の支那文典は精読したというほどでもなく、通読すらしたとは言い難い状況ですので、誤りや勘違いがありあましたら訂正していただきたい。

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