『漢文は解釈有りて後、訓読あり』
『漢文は解釈有りて後、訓読あり』

『漢文は解釈有りて後、訓読あり』

明治昭和の東洋学者、井上秀天氏曰く、

(作麼生免得此過、具透關眼者(、試舉看))この二句を、古来「作麼生かこの過ちを免れ得ん。透關の眼を具するものは、(試みに挙す看よ)」と云ふ風に、下の句に続けて訓読して居るが、私の見解に依れば、この二句は「如何にすれば、この過ちを免得する底の具透關眼の者たり得るか」の意であるから、「具透關眼者」は下句に続けずに、上の「作麼生」に掛けて見るべきである (『碧巖錄講話』六九七項)

と。「作麼生」は「如何」に同じ。「透關眼」は「活眼」に同じ。「此過」とは説法は説くことも聴くことも出来得べきものでないのに、依然として説法し、またそれを聴いておること。

従来、この句を「どうしたらば、この過ちを免れ得るであろうか。活眼を具するものは試みに挙す看よ」と解釈した為に、「作麼生免得此過」を一つの句(sentence)とし、「具透關眼者」を下の「試舉看」に掛けて読み下したわけです。其れに対して井上氏は「どうしたら、この過ちを免れ得て、活眼を具する者たり得ん」、「どうしたら、この過ちを免れ得る活眼を具する者たり得ん」と解釈したが為に、「作麼生免得此過、具透關眼者」の全体を以って句(sentence)とはするのです。此くの如き解釈があって後、「作麼生(そもさん)か、この過ちを免れ得て、透關の眼を具する者ならん」、「作麼生か、この過ちを免れ得るの具透關眼なる者ならん」などと読み下すことにはなるのです。読み下して後、解釈があるのではないということの一例であります。

無論、解釈が文法に違反してはならないのは言うまでもありません。その意味において、我々は解釈が漢文法に背いておらないかどうかを自ら点検できるだけの学力を必要とするのです。

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