旧独学漢文法より転載。
最近ですね、ちょっと私も用例集と言いますか、孟子なり何なりから任意の例文を採ってそれを品詞や成分関係、あとは検索の便利のために句法の項や標準漢文法内の記載箇所などを書き置いて一覧にしてみようと思ってですね、アプリのnumbersと言うのを使って表にしてるんですね。それで今一度各例文につき該当するであろう標準漢文法の箇所を読み直しておるんですが、やはり色々と忘れてしまっておるものですから、これがなかなか難儀な作業になるのですね。あれはあそこ、これはどこそこに書いてあるなどと速かに行くかといえばそうでない。案外に自分の分類が果たしてそれで当たっているかと言うことを反芻してみなければならない。それでまあ今回はその読書の最中に読み直した自分の記事をこうして記憶のためにも再び転載しておこうと思った次第です。
「妻」と云う字には「めあはす」、すなわち嫁がせるの意味がありまして、辞書などには「以女嫁人曰妻之」(女(むすめ)を以って人に嫁せしむるを、之に妻はすと曰ふ)と説明されておりますが、文法的に申せばなんということはありません、先日扱った名詞性動詞の第二の用法である「他動の客観的生産性動詞的用法」であります。つまり自分の娘をして人に妻と為らしめるわけであります(使吾娘為人(*)妻)。「使趙不將括即已」(史記廉頗藺相如列傳)の「將(将にす)」などと同じ用法に過ぎないのです。
(*)「人」は「為」の依拠性に対する依拠格的客語。「人に妻と為る」であり、「人の妻と為る」ではないことに注意(二百十二項参照)。
乃妻之姚姓之玉女 (史記秦本紀 ) ⇒ 「使姚姓之玉女為之妻」
故先以其女妻胡君、以娛其意 (韓非子說難) ⇒ 「使其女為胡君妻」
以其子(*)妻之 (論語公冶長) ⇒ 「使其子為之妻」
*概念の新旧の都合から他動性の客語(其子)を先にし修用語としてあるのです。「妻之以其子」とあれば、却って「其子」が新概念になるのです。之にめあわすに(なんと)自分の娘を以ってするといった気味になります。原文は「其子」を旧概念とし、「妻」を新概念としてありますから、自分の子をどうするかといえば、(なんと)之に妻とする、といった気味。
変換後の「妻」は「為」の生産性に対する生産格的客語で、複層の客語の一方が生産格的であれば、必ずそれは外層となることは上記の通りであります(八百九項参照)。変換後の「為」と「妻」とが斜体・太字となっておりますのは、原文ではこの二成分が「妻(妻とす)」という一詞で表されていることに注意を促すためです。二つの概念の統合されたものが一詞で以って表されておるのです。このような「詞の妙用」を評して松下博士曰く、
漢文は各詞が大抵単音であって活用が無く且つ助辞が無く、それで巧みに各詞を用いて簡潔に思想を表すものであって、此の点に於いて実に世界無比のものである。勿論俗事の実用には不便なものであるが、古典としてその妙味を味ふには及ぶものが有るまいと思ふ。殊に名詞性動詞の妙用に至っては実に感服の外ない。論語などの文章が崇高であるのもそういふ点が大いに関係すると思ふ。之をもし書き下しにしたならば価値は十分の一もないことになる。何となれば助辞や語尾や殺風景な贅物が沢山目に入るからである云々 (『標準漢文法』四百四十一項)
余談
諸侯不期而會者八百國、皆曰紂可伐矣、王不可 (十八史略)
このような「不可」を一般的に「きかず」と訓みならわしておりますが、文法的に云えば、動詞性再動詞(変態動詞)であります。たとえば以下の如きものと同じです。
妻曰死何益、不如自行搜覓、冀有萬一之得、成然之 (聊齋志異)
夫色智而有能者、小人也 (孔子家語)
「然」は「しかり」ではなく、「之を然りとす」の意味であります。「有能」は「能有り」ではなく、「能有りとす」の意味であります。すなわち「以之為然」「以能為有」(または自以為有能)の意であります。これに倣って「不可」を訓めば、「不可とす」となります。「王不可」は「王以諸侯之言為不可」の意であります。