「為~所~」は一般に「~の~する所となる」と訓まれまして、被動(受身)を表すものであります。たとえば「富豪為悪人所殺」とあれば、「富豪、悪人の殺すところと為る」と訓み、「富豪が悪人に殺される」の意となります。松下博士もそう解説しておられる。しかしこの「為」は去声に読まれるもので実は動詞「ナル」ではなく、前置詞「タメ」であります。このことについて確か岡井慎吾氏であったと思いますが、松下理論中の僅かな瑕疵に過ぎぬといったようなことをおっしゃておりまして、私としても如何にもそうであろうと思う。然して、この「為」を前置詞と考えたところが松下文法の説明とは決して矛盾しない。たとえば、
實為時輩所見推許 (韓愈)
この「所」は単性化したものとして、上語を受けた「ソレニ」くらいの意義として解せば、「実に時輩の為に(ソレニ)推許せらる」とでも訓ずればよいと思う。「ソレニ」は心の中で読めばよい。誰に推許せられたか、其の被動の客体を副詞的(名詞ではないのに注意)に再示し表しておるのです。
無所累於世 (韓愈)
一見被動の客体が「所」の下にある様に見える。無論、「世に煩わされる」の意かもしれない。しかしこれも上の原則で「所」が漠然と被動の客体を副詞的に表し、「アレヤコレヤに煩わされるなんてことをこの世に於いてすることはない」の意かも知れぬ。「世」が被動の客体か、単に場所を表す(*)のかは判然としないように思う。また「所」をほとんど動詞性を表すだけの前加成分と考えるも無論可であります。
(*)「於+名詞」の「名詞」が単に動作の場所を表す例
- 孫子臏腳於魏 (韓非子・難言)
- 司馬子期死而浮於江 (韓非子・難言)
魏が孫子の足を不具にしたのではなく、魏で足を不具にさせられたのです。長江が司馬子期の死体を浮かべたのではなく、死体が浮かべられることを長江に於いてしたのです。読み下すには「魏に脚を臏せらる」、「江に浮かべらる」としますが、「魏」も「江」も被動の客体ではなく、動作の行われた場所を表しておるのみです。
ちょっと余談になりますが、
或為事物是非相感發 (韓愈)
の「相感發」はもちろん動詞でありますが、「相感發的状態と(あり)」の如く考えるとよいように思う。此れは私の個人的な案であり、松下博士はそのようなことをおっしゃてはおりませんが、そう考えるとよく辻褄が合う。後に三矢博士の『高等日本文法』の付録に私の考えたのとほぼ同様の案を「日本文法の解剖に当たって非常によく切れる刀」の如く評されておるのを知り手舞い足踏むを忘れるの喜びでありましたが、実際この考え方は日本文法だけでなく漢文法を解剖するのにも非常に役立つ。即ち「事物の是非に(依拠して)相感發的状態とあり」の如く解すのです。『標準漢文法』(一八〇項)に、
生産性動詞の生産性に対する客語は皆其の生産物を表すものである。そういふと名詞の様に聞こえるが、模型動詞であって名詞でない。事物としての生産物を表すのでなく一種の作用としての生産物を表すのである。
とあります。松下博士は「彼が大将となる」の「大将と」をも名詞性動詞と言っておりますから、やはりどこまでも生産性(一致性に同じ。一致性のなかに特に生産性の目を立つるのみ)に対する客語は動詞であるという考え方でゆくのです。依って「或為事物是非相感發」を仮に「或為事物是非所相感發」とした場合も、「事物の是非の相感發するところと為る」と解すも可でありますが、直訳的に「事物の是非に(依拠して)相感發する的状態とあり」の如く解するのがよい。「為物傾側」も「物に傾側的状態とあり」の意であり、「為戮於楚」も「戮的状態とあること楚に於いてす」の如く考えるのです。「~的状態」とは客語の本体が動詞であろうが名詞であろうがそれを形容性動詞にしてしまおうというのです。名詞ならば外延で以って内包が覆われておるから其の外延を外した状態にするのです。動詞ならばそこから時間の概念を外した状態にするのです。これは思惟の問題でありますから、ただ理屈の上でそういう作業をしていただければよい。
古人曰く、「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず(書不盡言、言不盡意)」、「知る所を竭盡(つく)して、愛(おし)むことあるを為さず(竭盡所知、不為有愛)」と。もとより私には出し惜しみするほどのものはないとは雖も、なかなか意を尽くしがたい。このことについてはまた日を改めて述べるところがありましょう。