有其善、喪厥善、矜其能、喪厥功 (書経・說命中)
「其の善を恃みとすれば、為に人から善有りとせられず、其の能を以って威張れば、為に却って人から有能とはせられない」といったような意味であります。其れは漢文自体からも分りましょうが、註を見ればさらによく分かる、
人生尚謙讓而憎自取、自有其善、則人不以為善、故實善而喪其善、自誇其能、則人不以為能、故實能而喪其能、由其自取、故人不與之 (尚書正義)
問題はこの「有其善」をどう読み下すかであります。塚本氏の漢文叢書では「其の善を有すれば」と訓んであります。しかし、意味はそうではない。意味は、「自らを以って善を有すると為したらば(自以為有其善)」、であります。これを理論的に説明しますと、「有」が臨時に一致性(生産性)を帯びており、且つ既に非生産態化しておるわけであります(四三六項)。すなわち「有」は「有り」ではなく、「有りとす」の意味であります。「有りと」と「す」との関係は、山田博士の所謂「賓格」と「形式用言」との関係に同じであります(山田孝雄『日本文法学概論』六九八項)。「夫色智而有能者、小人也」(孔子家語)の「有能者」も同様の用法であります。また「有」が臨時に帯びた生産性動詞に随伴して生じる他動的帰着性に対する客体(*)、簡単に申せば「~を~とす」の「~を」に当たる部分でありますが、其れは自己を指すことは明らかでありますから非帰着化せられておるわけであります。すなわち「自分で自分を善有りとす」るわけです。以上に依りまして「有其善」を、「其の善を有りとすれば」の如く読み下したいと思います。
(*)山田孝雄『日本文法学概論』(七三九項)の語を借りれば、
動詞「す」が形式用言として賓格を伴ふとき、又補格を伴ひて相合体して一の用言の如き意と用とをなせるが、其れ全体として、補格を要求することあり。たとへば、 「億兆心を一にして世々其の美をなす」 の如きこれなり。これらは其の「す」といふ動詞のみなるときにはかくの如き補格を要しうるものにあらぬことはそれらの捕格より直ちに「す」につづけては意味をなさぬにて明らかなり。即ちこれらは「一にす」といふ語全体の意よりして補格を要求する性質を生ずるに至れるものなりとす。
とあり。「賓格」といいますのは実質用言から陳述の作用を除いたものと考えてください。「一にす」の「一に」の部分であります。之を松下文法では一致格的客語といいます。「す」は形式用言にして、松下文法に所謂帰着形式動詞(一致性動詞、または主客語を受ける助動詞(改撰二九五項))であります。成分としては帰着語です。すなわち「一に」と「す」との関係は之を客体関係というのです。漢文にてはこの統覚を為す所以の「す」の意義を一致格的客語の内部に含ませることができますので、「心を一にす」を漢訳して「一心」とはするのです。「一」自体が属性と陳述とを兼ね有し得るのです。「心」は山田博士の言う補格であります。松下博士の所謂他動性の客語です。「心」と「一(的状態)」との一致を表すので一致性というのです。
「白し」は言語の単位として一つであるにせよ、思想上は二つであります。一つは属性観念に、いまひとつは陳述の作用であります。それを我が国語にては一つで表しうるわけでありますが、これを言語上も二つの単位に分解せんとすれば、「白くあり」とでもします。要しますに、属性の観念と陳述の作用とは分解せずして表すこともできれば、分解して表すこともできるのであります(山田孝雄『日本文法学概論』三二項)。これが人間の言語一般に言えるのならば、漢文にて「一心」を「心を一にす」と為したところが、まったく疑念の生ずる処にあらざること明らかでありましょう。松下博士は此くの如き運用を変態動詞として分類しております。我々はこれを根拠に先の「有其善」を「其の善を有りとす」とは読み下したのであります。
【参考】
「品詞の転化(一致性動詞に対する客語の分類)」(旧ブログ)