以前に旧ブログ『獨学漢文法』にて論語の「民可使由之」の一節を例に使動(使役)について述べたのでありますが、其の時には朱熹の注を元に原文を解釈し能事畢れりとしておりましたが、「可」の文法的性能をも併せて考えますと、古註のほうがよろしいのではないかとも思われまして、ここに再検討をしようというのです。
「可」の文法的性能とは何かと申しますと、「可」は日本語で言えば形容詞語尾(文法上は帰着形式動詞)の如きものでありまして、「水を飲みたい」の「たい」ではなく、「水が飲みたい」の「たい」に相当するとでも考えてください。すなわち「水」は「飲みたい」の主語であります。「水」が「飲まれんことを欲しておる状態」にあるのです(*)。
(*)また松尾捨治郎氏の『国語法論攷』(二四七項)にて以下の如く述べておられる。
(「酒が飲みたい」「話が聞きたい」)は、元来「酒が私の飲みたいものである」、「話が私の聞きたいものである」、といふやうな構成意識を含蓄する語と思はれる。「此の字が書きにくい」「点数が得易い」なども同じ趣で、「書き」「得」といふ動作が高調されるのとは違って、「にくい」「易い」に対して「字」「点数」が緊密な関係を有するのである。
「可」は下詞を統率して主語に対する叙述語となるのです。加藤徹氏の『白文攻略 漢文法ひとり学び』(三十二項)を先日読んでみたのでありますが、そこには
- 一寸光陰不可輕
- 後生可畏
の如き例文を挙げてこう説明しておられる。
「一寸光陰不可輕」は漢文法の目的語後置の原則に忠実に従えば、 A、「不可輕一寸光陰」 B、「一寸光陰不可輕之」 などと書いてもよいはずだ。
と。「後生可畏」についても、「後生」が「畏」の目的語で、其れが倒置された者と看做しておるようであります。実は私も旧ブログにて木戸孝允の詩の文法を論じる際に、似たようなことを申しておりますので、そのことをここで釈明しなければならない。
山堂夜半夢難結
嘗てこの一節の「夢難結」を以下のように説明しました。
(*)「夢難結」の「夢」は客体的提示語。「難結夢(夢を結び難し)」の客語が提示されたもの。または「字が読み難い」などの構造と同様に「夢」を「難結」に対する主語と看做すも可。嘗て国語学者の保科孝一氏などは「茶が飲みたい」の「茶が」は誤りで、「茶を」とすべきであると述べられたことがありましたが、決してそんなことはない。「たい」は形容詞語尾であり、「飲みたい」全体が自動詞なのです。「茶を飲みたい」とすれば形容詞の自然的他動(保有)の用法になります。
客体の提示というのは加藤氏の言う目的語の倒置と同じです。この記事を書いたときには「可」や「易」「難」などの形式動詞に対する理解が不十分であり、客体の提示の可能性も捨て切れておりませんでしたが、今は主語と考えるべきものと思っております(*)。
(*)松下大三郎『標準漢文法』(七三六項)にて、以下の如き例文を客体関係の連詞ではなく、断句的修用語(連断句)として挙げておられるのも、「可」の性質を知る一助になりましょう。
可憐楊柳傷心樹、可憐桃李斷腸花 (劉廷芝)
下線部は赤字の客語ではないのです。本来「楊柳傷心樹可憐」(これならただの単断句)とあるべきようが、顛倒して赤字だけで一旦独立終止しておるのです。下線字は指示態名詞で、断句的修用語の統率語です。
加藤氏は『白文攻略 漢文法ひとり学び』百項に
孺子可教矣 (史記)
を引用して「このガキめ、まあ(わしが)教えてやってもよかろう」と解しておられますが、これも「孺子」を主語として、其の「孺子」について「この小僧が教育するに可なり」と叙述しておるのです。「孺子」(主語)が「可教」(叙述語)なのです。「可教」は「可憐」や「可愛」が主語を叙述する一種の形容詞であるのと等しい性能と考えてください。「孺子」は「教」の客体概念ではありますが、客体の提示ではないことに注意してください。もし「可以教孺子矣」とあれば、「或る主体」について「其の主体が小僧を教えるに可なり」と叙述した文になります。
「可」の下にある内包的客語の客語または内包的客語を修飾する前置詞(または修飾形式動詞)の客語は、「可」の主語として既に現れておる以上、最早これを表記するに及ばないものであります。
- 為文詞者、悉有法度可觀 (韓愈・柳子厚墓誌銘)
- 日視便利田宅可買者買之 (史記・廉頗藺相如列傳)
- 人之可使為不善、其性亦猶是也 (孟子・告子上)
「法度可觀」は「法度の観るべき」であり、「法度を観るべき」ではありません。「日視便利田宅可買者」も「買」の客語の無いのを確認してください。「者」は「可」の主語を指します。「便利の田宅にして、(ソレガ)買うに可なるソレ」の意です。「人之可使為不善」につきましても「人之可使之為不善」とする必要はないのです。楊伯峻は『中国文語文法』(一五八項)にて、
民可以樂成、而不可與慮始 (史記・滑稽列傳)
この「以」(松下文法に所謂「内包的客語を修飾する前置詞」)を、「「以」の字の下の賓語が、上文のようにあらわれたばかりであるなら、それ以上重複もせず、指代詞も使わないのが、常例であることを知ることが出来る」と説明しておられますが、これを理論的に定義すれば、「内包的客語の客語または内包的客語に掛かる修用語の客語と、「可」「足」「難」「易」「被」「為」「見」の主語とが同じものである場合は、内包的客語または其れに掛かる修用語は非帰着化し、客語を取らない」とでもなりましょう。
ここに於いて、最初に述べた論語の話に戻るのです。
民可使由之、不可使知之 (論語・泰伯)
上記に述べた定義に則れば、「可」の主語と「之」とは別のものであるべきであります。すなわち「之」が「民」を指すのならば、「由」や「知」は非帰着化するわけでありまして、にもかかわらず「之」があると言うことは、この「之」は「民」以外のものを指すのである、と文法的には結論付けられることになります。而も「使」(内包的客語に掛かる修用語)の客語は非帰着化しておることを確認してください。注疏には、
此章言聖人之道深遠、人不易知也、由用也、民可使用之、而不可使知之者、以百姓能日用而不能知故也
とありまして、これによれば「之」とは何か深遠な聖人の道理を指しておるもののように解してありますが、いづれにしても「之」を「民」とは異なるものとしておるわけでありますから、文法的には正しいように思われます。ちなみに朱熹註は以下の如きであります。
民可使之由於是理之當然、而不能使之知其所以然也
松下文法上も、また楊伯峻の言にもありますように、「使」の下の「之」は無いのが常例であるというのです。
「可」の下にある内包的客語の主体概念は合主化するの論
『標準漢文法』五九七項参照。然るに以下の如き例を如何考えるか。
凡十八九州、以少言之、尚可四五萬人不耕而食 (歐陽公・ 上通進司書)
広池博士はこれを「四五万人耕さずして食らふべし」と訓んでおられますが(『支那文典』四九五項)、その場合「四五万人」は下詞に対して修用語と為すべきでありましょうが、はたまた「可」を「ばかり」と訓じて、「尚四五万人ばかり耕さずして食らふ」とすべきでありましょうか。
【参考】
徳田政信 『日本文法論』(三二〇項、「たい」は形容詞語尾か助動詞か)